最近、自分の縛りがどんどんシンプルになっていく。
誰もやったことがない縛り。
誰も見たことのない吊り。
そういうものを模索していた時期は、今思えば、目の前の受け手さんに、今まで体験してことのない感覚を体験させてやろうという(「してもらおう」ではなく)驕りであり、また、それを見ている「誰か」に「自分」を見せつけたかっただけだったように思う。
気がつけば、いつの間にかそういう感覚が薄れていき、今は目の前の受け手さんに自然と集中出来ているような気がする。
すると、縛りは自然と、奇をてらったものが排除されていき、徐々にシンプルになっていく。
結果、毎回同じような縛りになっていったりもする。
もちろん、同じ縛りというものは2度と無い。
それは、例え見た目が全く同じだったとしても……だ。
たまに、同じ縛りばかりでは飽きない?
って話を聞いたりする。
私も以前はそうだった。
けど、それは縛り自体を目的としているからなんだと思う。
「こういう縛りをしてみたい」
で、縛っていると、その形がちゃんと出来たころには飽きてしまう。
けど、目的が縛りそのものではなく、相手を開放させてあげようとか、感じさせてあげようとか、メロメロにさせてぐちゃぐちゃにしてホニャララして××して☆▲⇔〆◇♀♂*あ”ぁーーーーっ!……
などと考えていれば、形そのものはどうでもよくなる(笑)
受け手の鼓動や息づかい、表情などから、縄を掛けるスピード、這わし方を変える。
また、自分が伝えたいものを伝えるために、わざとそれらを無視して強引に自分の世界に引き込んでいくこともある。
※蛇足になるが、毎回違う縛りをしている方は、それらのことが分っていないという意味ではなく、あくまで私の場合は……ということ。
想いのままに縄を掛けていく結果、毎回違う縛りになっていくという方も沢山います。
結局、「SMにしても縛りにしてもセックスにしても、いかに相手を観察出来るかが全てである」
というのが、今現在の考え。
これは、本当は主従であれ、恋人であれ、夫婦であれ、友達であっても同じことなんだけどね。
けれど、それらを全て覆すものがある。
それが関係性。
お互いに、確固たる信頼関係(巷で安易に使われすぎて、どうしても安っぽく聞こえるので、あまり使いたくない言葉なんだけど)が構築されてさえいれば、多少油断して見逃してしまったところで、それらは自動的に修復される。
それは、私が主従というものに固執する理由のうちの一つ。
とはいえ、関係性については、話しだすとダラダラとキリがないので、またの機会にでも(笑)
ってことで、最近は縛りがどんどんシンプルになっていって、同じような縛りばかりしてるけど、別にめんどくさいとかじゃないからな!
って、お話(笑)
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